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スタッフのつぶやき

就労移行支援事業所リタリコワークスから就職したお話

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リタリコワークスについて~はじめに~

当事業所は障がい者雇用をしています。就労移行支援事業所リタリコワークスの出身です。リタリコワークスで訓練された当事者の方はよく訓練に取り組んでいると感じます。やはり最大手ですので、しっかりとした訓練のカリキュラム、職員に対する研修が行われています。

また、就労開始からもしっかりと関わってくれる事もありがたいです。よりどころがあるのは本人にとっても安定につながるようです。

そんなうちのスタッフの雇用されるまでの道のりを記事にしています。

リタリコワークスにたどり着くまでのお話

私は、後天性障害のうつ病を持っています。
よくありがちな話ですが、勤めていた会社で少し頑張りすぎてストレスが悪さをしてしまいました。
これまで私は、二つの会社を渡り歩いてきましたが、二十代は良くもわからずモーレツに働き、三十代はこれまでと全く新しい業種に取り組んでいました。

そんな毎日だったので、そこまで障害や障がい者について、深く考えたことはなかったと思います。
それがある日、当事者となり環境も人生も大きく変わりました。
四十代は人生にとって失った空白の時間となりましたが、今では新しい人生を始めることができるようになりました。

次章からは、そんな病気になる前の生活と闘病中の生活、社会への復帰について話したいと思います。
このブログを見ていただいている方になにかしらの事がお伝えができれば幸いです。

モーレツ時代

ここから少し、これまでの私の生活をお話ししたいと思います。
たぶん興味ない話かもしれませんが、ここは少しだけお付き合いください。

仕事は、とにかく納得いくまで追求するタイプでしたので、新入社員の頃は仕事で納得いかないと、よく上司の後に食らいついていました。若手の特権だったと思います。私は当時上司に恵まれ、腑に落ちない壁やストレスから守ってもらって、伸び伸びと仕事に勤しんでいました。いろいろなことを知り趣味も増えました。この辺のお話はいろいろあるのですが、趣旨が違うのでまた違う場所で。
このころは充実した幸せな生活でした。

入社して十年がたつ頃、他県で仕事をしていたこともあり、三十代に転機が来ます。このまま仕事を継続するか、地元に帰るか選択することになります。当時の仕事に不満もなくやりがいも感じていたのでかなり迷いましたが、実家の事情と将来のこともあり、帰ることを選択しました。今でももったいなかったかなと思う時があります。

地元に帰ってからのことはノープランでした。ただ、これまでの職種とは異なる”手に職をつけたい”とは考えていました。何かしら役に立つかなとハローワーク主催のプログラミング講座など受けて、それなりに会社の内定をもらいましたが、改めて新たな方向を求めていたことを考え、寸前で丁寧にお断りさせていただきました。ほんと失礼なおはなしです。

新しい世界へ

帰省してからというもの時間は多くあったので、前職当時から伝統工芸に興味があり工房巡りをしていました。そのなかである大きな工房に興味があり、見学場を朝から晩まで三日間通い続けます。三日目の夜、仕事後の親方をつかまえて入門のお願いをしました。今考えても無謀です。当時、三十歳を過ぎていましたし、たいがいは二十歳前後が入門の相場でした。

結果は、意外にも入門を認めてもらえました。直前に退職者がいたのが良かったのでしょう。
ラッキーでした。
仕事には夢中になりましたが、ラッキーで入門した自分には生易しい世界ではありませんでした。挫折してやめようとしたしたこともありました。別な部署に移ったこともありました。やっと職に落ち着いたのは一年後位でした。三十代からは、職人としての生活が始まりました。新しいことばかりで夢中になって仕事を重ねていきます。
なのでこの時に、不穏な風が近づいていることは、自分には知る余地もありませんでした。

代表
代表

うつ病の症状(初期)の記事にも書いた通り

忙しく過ごしている人は自分の変調に気づきにくいです。

無理をしている自覚すらないのです。

不穏な空気・・・

工芸家・職人の世界は人の出入りが激しいことがあります。お弟子さんを多く雇っているところは特にそうです。独立したいひと、芸術性の違いを感じ去る人、人間関係がうまくいかなかった人、理由は様々です。そんな状況もあり十年で一人前と言われる世界で、私は八年で親方と言われる地位に立つことになります。決して技術に長けているわけでもなく、人格者でもありません。ただ、周りがやめていったので、自分が古株になっただけの話でした。これが、この後の不穏な理由の一つになります。

私の工房は、ワンマン社長でした。
それは決して悪いことではありません。社長は作家先生であり、先生の工房です。ですから指示は絶対です。ただ小さい工房ならともかく、工房の規模が大きすぎました。会社には、様々な部署・仕事がありますが、そこへそれぞれに所属長に細分化された指示が通り、スタッフは各々の仕事に取り組みます。
ところが、先生は直接気に入ったスタッフへ、部署長を飛び越え指示が出されていたのでした。現場はいつも混乱です。デイリーの仕事を任されているスタッフは取られ、そのしわ寄せは他のスタッフや所属長に跳ね返ってきました。スタッフ間の不満や嫉妬はたまり放題で、職場は殺伐としていました。
所属長になった私は、スタッフをなだめ、先生に進言し、たまに喧嘩する毎日でした。ですが、それも所属長の仕事であり、ある程度は納得していました。ただ一点を残しては・・・

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病気の始まり

所属長にも仕事はあります。
当然ですね。スタッフや商品の管理、デイリーの作業、自分の作品作り、先生や各部署長との打ち合わせなど様々です。先ほどの話でいうと日中の就業時間は、スタッフとの話し合い、先生との折衝、各部署長との打ち合わせで終わってしまいました。当然、自分の仕事は後回しです。これが辛かった。ノルマのデイリーワーク、なにより自分の作品作りが全然進まないことも辛かった。

それ以上に日中は、スタッフの不満解消、先生との喧嘩にも近い折衝をやり、自分の焦りとすべてのことに不満が募り始めてきました。自分の作品作りに希望を募って入社してきた自分も目的が見えずらくなってくるのでした。さらに、残念ながら周りにはその事は伝わらないもので、私の至らない点には私に即直接攻撃の対象になってました。不可解でやるせない気持ち。しだいに黒いものが胸に渦巻いてきました。

渦巻いた黒いものは減ってはくれませんでした。増え続けるものは、自分の人間性を変えていきました。ひどく攻撃的になり、卑屈な考えになる。困ったことに次第に奇行も出るようになりました。人と接さず、次第に人は離れていきました。自分の仕事どころではありません。工房も休むようになりました。責任者も解任されパート扱いとなり、後輩が所属長になりました。人も信じられなくなりました。ここにはいられないなぁと感じ、逃げるように退職するのでした。最悪です。
仕事は大好きなのに・・・。

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代表
代表

就労環境。そして自分自身の性格。

理解できる部分、そうでない部分。

自分自身が納得していないまま継続する事の恐ろしさ。

ストレス要因しかないこの環境下では、当然病気へとつながっていきます。

病院さがしの旅

工房での就職末期に、精神科の病院に行きました。自宅から近くて、できたばかりの病院でした。そこの若い先生は、有名な病院から独立して始めたようで自信にあふれていました。話をよく聞いて薬をよく出してくれました。ですが、この点がおかしかったことに当時の私は気づきませんでした。親身に話を聞いてもらい、私の訴えに反論はほとんどありません。私の訴えに薬を出し続けてくれるのです。

良くありませんでした・・・。当初は「適用障害」と言われていましたが、いつしか「うつ病」と診断され、次々と薬は増え続けていきました。最終的に買い物袋いっぱいの薬です。
それから私は、精神薬の怖さを知ることとなります。私の症状に合っていない薬を大量に処方され、私も疑問を持たず飲み続けました。異変に気付いたのは、両親でした。自分の意識にない奇行が目立つようになったからです。普段は一人で受診していたのですが、両親が疑問に思い異変をまとめた文書を主治医に渡して相談したところ、豹変した先生はまとめた文書を放り投げて開き直ったのでした。決別の瞬間でした。先生にとっては私の病気より処方箋の収入が大事だったようです。

次病院は、町医者でなく大きな病院にしようと有名な病院に転院しました。診断は「双極性うつ病」でした。ここで疑問ができました。「うつ病」と「双極性うつ病」はその症状も処方も違うものだからですが、ここは反論せず主治医の先生に従いました。

六か月の即入院でした。(今では三か月が限度です)入院中の半年間は自身も家族も大変でした。病気中に発生した依存症での購入物の支払い、それでも依存症は院内でも続きました。ベットのカーテンは日中も張り巡らし引き籠っていました。
ただ半年も世間と隔離され、カウンセリングを受けていると少しずつ改善もするようです。次第に退院することに目途が立ちました。
ある時突然それは起こりました。大病院にはありがちな院内抗争があっていたようで、担当の主治医とカウンセラー一同退職することになったのでした。とても困りました。とりあえず転院するかの選択を迫られましたが、主治医を信頼していたために、そことは違うよその病院へ仮転院するのでした。

そして人生を変える大事件が起こるのです・・・。

もがき苦しむ・・・

退院したとはいえ、病気が良くなったわけではありません。通院も必要でした。その頃の自分は、すべてに対し攻撃的で世を恨んでいました。親に初めて手を上げたこともありました。両親は泣いていました。当然のように引き籠りました。食事も部屋でとり周りを外を遮断し、ベットの中でもがいていました。発症から十年が過ぎていました。

そして、ことは起こります。
父の死です。
それまで病気一つしない健康体です。理由はお察しする通りです。父は責任感と優しい人でした。病気中も私の食事を作り、私の生活を一切責めない人でした。しかし父なりに大変悩んでいたと思います。

それからというもの、毎日ものすごく責めました、恨みました。もちろん自分のことをです。ますます引き籠り続け、自分を呪いもがき苦しみました。自分が死なせたと・・・なんてことをしたんだと。

父の葬儀には這いながらやっと出ることができました。母親も姉も親族も誰も私のことを責めません。そのことが辛く悲しかったことを感じていました。感じていたとは、その当時も私は正気ではなかったからです。
しかし、大変皮肉なことに、この衝撃が後に病気を改善に向かわせるきっかけとなったことは事実です。

代表
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世を恨む。

誰しもが通ると思います。確かに環境のせいでもあります。

しかし、そのまま世を恨み続けるか、気づきがあるか。

治療に向き合って

父の死から自分を恨み続けました。周りは心配し、私の最悪の事態に備えていたようです。
そしてある日それは起こります。心の極限の状態についに我慢できずに、強い躁状態に陥ります(後から聞いたはなしです)。救急車で搬送されました。県内でも大きな三度目の病院です。暴れまわりました。病院の先生にも当たりました。自分が父を死なせたんだと吐き出したい思いでした。誰でもいいから許してほしいと願いを乞いました。

それからは入院三か月、絶対隔離です。自分自身で間違いを犯さないように・・・。
ただ、今度の入院生活は違いました。一人部屋で今後を考えました。限りなく答えの出ないことでも考えました。甘えていた父の存在がもういないこと、気丈にふるまう母親の姿、厳しくもやさしい姉の存在。自分がどうするべきかを真剣に考えるようにしました。治療に専念するようになり、治療カリキュラムも真剣に取り組みました。人ともなるべく積極的に接しました。家族のために自分のために。

そのせいか次第に心も落ち着き、予定の三か月たたずに退院できました。徐々に投薬も最小限になります。ただ通院は続き、自宅療養が始まります。引き籠りには自発的に注意しました。近所の散歩からスポーツジムへ。外の空気に触れることを大事にしました。おかげで近所とおしゃべりできるまでになり、自身が変われる気持ちにもなっていきます。母は父の死後、腰の骨を折り不自由な生活を送っていたので、家事の手伝いも生活のリハビリになっていました。

ある日、母が通っているデイサービスのケアマネジャーと会うことになります。それまでも訪問されていたのですが、今回が初めての対面です。その方は母の状態を通じて、私の人と接する心のケアもしてくれました。もちろん彼は専門外のことでしたが、笑顔で話ができたのは何年振りかわからないほどでした。以後定期的にお会いすることが、リハビリになるのです。一つの出会いでした。

代表
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自分を恨む。

自己肯定が出来ない状況ですね。

病気によるスパイラルでもあります。

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未来への第一歩

父の死から三年が立とうという時に、ようやく社会復帰を果たしたいという欲求が芽生えるようになります。家族にも少しずつですが、その気持ちをほのめかす程度に話し始めていました。
とある時、姉から「りたりこ」に行かないかと軽く話が出ます。
りたりこ?
私は、これまでハローワークをはじめ、いろんな社会復帰のセミナーや講座を受けてきましたが、いまいちパッとこなかったので、うわの空で聞いていました。後で姉に聞いても本人もそのことを忘れている位のことでした。

ところが、インターネットで就職の糸口を探していた時、その中に”LITALICO”の文字を見つけます。そこは「障害者就労移行事業所」でした。そのころは私は就労にハローワークで障害を「オープン」で探すか、「クローズ」で探すかなど悩んでいる時でもあり、その選択に悩んでいた答えがそこにあるのではないかと早速自身で資料を取り寄せました。ちなみにその時にこれが姉が言っていた「りたりこ」だとやっと一致したのでした。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

はじめての出会いリタリコは、上記リンクへ↺

代表
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偶然にも、こういった巡りあわせが起こります。

偶然と言ってはみたものの、実際はどうなんでしょうね。

こうなるようになっていたようにも感じます。

大きな新しい出会い

その時期に、今後の未来を左右する大きな出会いを果たします。「精神保健福祉士 相談支援専門員」の方がそうです。なんとそうなんです。今の私の雇用主です。このことは、この時点でそうなることも想像もつかなかったので、このおはなしはまた後にしたいと思います。

私とのモニタリングに戻りまして、初めてお会いした時には私の話を真剣に聞く、おもしろく話す、そして熱い方だなぁと感じました。初日の別れ際の熱い握手はとても印象に残っています。リタリコ通所期間中に世間話から、そのような相談員は珍しいと周りから聞きました。「これから全力でサポートします」との言葉にどれだけ勇気づけられたことでしょう。この思いは、現在も続く深いつながりです。

代表
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ここは間違いが(笑)

私は精神保健福祉士の資格は持っておりません(笑)

介護職員初任者研修修了者であるだけです!(笑)

”LITALICO”通所開始!!のはずだったのに・・・

いよいよ「LITALICO」に通所です。未来への希望を持って入所する予定でした。

ところがです・・・。
その矢先に母が脳梗塞で倒れたのです。主治医から三か月の入院、そしてその後の療養先を見つけてくださいと通告されます。意識があったのは幸いでしたが、叔母の脳梗塞の例もあり、後遺症を心配しました。程度は軽度で済みましたが、その後の入院生活、リハビリ、経過観察と心配事だらけです。
姉は教師をしており、平日の面倒は見れません。私が見るしかありませんでした。せっかく見つけた新しい道です。母はそちらを優先してくれと責任を感じていました。
そこで、リタリコは午前中だけにして、午後から病院へ通うことにしました。通所は午後もあったのですが、致し方ありませんでした。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

リタリコのお話をしましょう

私は、「LITALICOワークス宮崎」の卒業生です。
障がい者就労移行事業所は、障害者総合支援法に基づく福祉サービスを行う事業所です。類似サービスに就労継続事業所がありますが、ここでは、主に就労を目的としたサービスです。LITALICO(ここからはリタリコにします)は、「就労移行支援」「就労定着支援」「相談支援」の3つのサービスを提供しています。
就労移行支援は、就職先の斡旋とマッチングを支援します。就労定着支援は、就職後の問題のアドバイスで支援します。相談支援は、就職だけにとどまらず、生活において全般の問題を相談支援します。


ここまではHPの受け売りですが、これからは私が実際に受けたサービスや出来事をおはなししましょう。
まずは利用者ですが、老若男女様々です。年齢の幅広く(私も五十代ですが)、障害の度合いも違います。ですが、事業所内では平等に対応されます。利用者間同士もそうです。同じ社会を就職を目指す仲間です。
利用者は、30名前後。実際に通所される人数は、平均して日に20名弱です。(今はコロナの影響中なのでもっと少ないです)
送迎はありますが、基本的には自前で通所する方が多いです。これも今後の通勤の練習です。
スタッフは少数ですが、精鋭です。それまでに多くの経験をされ、私たちの疑問や生活の不安に親身になって対応してくれます。専門知識もあり大変頼れる存在です。安心して通所できるのもスタッフのおかげです。

事業所の利用期間は二年間ですが、中途で休所したりした場合延長の場合もあります。スタッフと利用者の希望とレベルを相談して、「体験・準備ステージ」「実習ステージ」「就活ステージ」の順に段階期間が予定されます。これも定期的に利用者との相談の上で決定されます。これからは通所期間にスタッフと協力して就職口を探すことになります。
後でもお話しますが、あくまでもこれからは利用者主体になります。スタッフはそのサポートに努めます。自分自身の意思で行動することが今後大事になります。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

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代表
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ぶっちゃけ、リタリコの職員さんたちはしっかりと研修を受け

支援のいろはを叩き込まれた方たちが揃っています。

最初、相談支援専門員として関わる時には緊張したもんです(笑)

さぁ、スタートです!

まずはスタッフとの面談です。利用者(ここからはメンバーとしましょう)のほとんどは就職希望ですが、社会に出てみたい方も多くいらっしゃいます。そのためにモニタリングは、その人の未来の姿や希望業種・職種、生活リズムや趣味趣向、将来の展望などいろいろお話します。すべては、メンバーが気持ちよく通所生活が送れるようになるためです。もちろんその時の気持ちは変化していきますので、定期的にモニタリングは行われます。

さぁ通所開始です!
基本的に通所時間は決められています。社会に出れば当たり前ですが、生活リズムを整える意味もあります。突然ですが、メンバーは通所に慣れてくると、「環境部」「運営部」「企画部」に部署担当を分けられます。
通所したら朝の清掃から(環境部が主体)で、本来メンバーで行うところですが、今はコロナのためスタッフがやってくれています。ありがたいことです。
次は、朝礼(運営部が主体)です。これはすべてに対してなのですが、将来を見据えてやれることはメンバーで行います。朝礼もその一つです。担当を交代しながら皆の前で進行します。人前は苦手な方は、パスもできますのでご安心ください。でも経験は大事ですよ。人前ではなすことに慣れれば、必ず将来に役に立つはずです。

朝礼の後は、カリキュラムの準備です。カリキュラムとは授業・講座の予定のことで、事前に一週間分のスケジュールをスタッフと相談して決めています。カリキュラムには、二通りあります。多くの人と受講する「プログラム」、それから主に個人で行う「個別訓練」です。プログラムには、スタッフが講師を務めますが、個別訓練にもスタッフがついていてその場で疑問にアドバイスしてもらえます。決して一人にはさせません。ご安心ください。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

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講座を受けてみよう!

プログラムについてお話しましょう。
講師による座学がほとんどですが、レクリエーションゲーム的なものもあります。個別にテキスト(三~四か月で一周します)や副読シートが渡り(ほとんどが無料です)、それにそってスタッフや外部講師によって講義も行われます。スタッフの手作りもあり、趣向を凝らしていて楽しい講義です。テーマは、自分探しについて、社会に出た時の礼儀作法、コミュニケーション力作り等々あり、スタッフ独自の講座なのでテーマは同じでもアプローチは異なり飽きが来ません。
テーマにそって自分の意見やほかのメンバーの意見を聞き学習します。ここでの注意点は、ほかの人の意見を最後まで聞き、それを否定しないことです。ほかの人の考えも尊重しましょう。
やはり、社会に出ることに大事なコミュニケーション力についてが盛り込まれています。お話が苦手な方も多いでしょう。安心してください。聞くだけでも良し、一人でやる個人ワークもあります。もっと慣れれば、みんなで集まってグループワークにも挑戦できます。あくまで自分のペースで参加しましょう。

個別訓練についておはなししましょう。
大勢の人の中が苦手な人、専門的な技術を身につけたい方は必見です。主に午後から面接千本ノックや事務ワーク、すぐに就職に身に着けたいパソコンソフトにアンケート入力、商品を一定量集めたりする「サンプリング」「ピッキング」や簡単な「組立」「検品」、3Dプリンターを使った「モノづくり」など自分が伸ばしたい能力に合わせて、スタッフと相談してチャレンジします。
一般的に午前中にプログラムを受けて、午後に個別訓練を受ける方が多いですが、一日中個別訓練をされる方もいらっしゃいます。私としましては、はじめは前述した午前中のプログラム、午後は個別訓練がバランスよく感じました。あくまで自分の感想ですが。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

もうちょっと詳しくお話しましょう。
プログラムの中には、メンバーによる企業に実習した報告会、前述の各ステージごとの勉強会、スタッフの得意分野による特別講座、テーブルゲームによるコミュニケーションゲーム、PC講座、TEC(ThinkEveryoneCanferwnce)と言われるメンバー運営の会議訓練(給料やボーナスの使い道なんてものもあります)、メンバーだけで作った講座発表や社会保障のような生活に役立つ内容もあります。

ここでひとつ、月一の楽しい企画部によるレクリエーションがあります。授業時間を使って就職に関すること、全く関係しないことなどのレクリエーションゲームを開催します。私も所属していて、毎回のお題づくりは大変でしたが、皆の楽しい姿が快感でした。人前で話すことが苦手な私も話せるようになったのは、このおかげでしょう。

ここまでの講座は、主に「体験・準備ステージ」で行われます。(もちろん別ステージ中でも受けられます)受講時間は、アイスブレイク(場を和ませる時間)を含めて、午前中は二時間、お昼一時間をはさんで午後二時間になります。(トイレや気分が優れない時などは、スタッフに告げていつでも退室できます)午前中に終わられるメンバーは、本日のスケジュール日報に報告書を書き、スタッフと話し合いを持ちます。一日の方は、その日の終わりに行い反省会をします。今後にとってとても大事な時間です。

と、ここまで駆け足でプログラム講座についてご説明しましたが、忙しく難しくきつく感じるかもしれません。ところが、はじめにご説明した通り、主体はメンバーご自身です。疲れたら休んでもいいんです。毎日来ることもありません(いや、決して来るなということではありません、毎日通所は素晴らしいことです)。自分のペースで、生活リズムを作ることが大事です。強制する人は誰もいません。嫌なことを押し付ける人もいません。苦手なメンバーも恐らくいないでしょう(私の代には一人もいませんでした。皆とてもフレンドリーです)。おかげで途中で辞められるメンバーは、ほとんどいなかったと思います。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】
代表
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リタリコさんの支援はしっかりと分析をしてくれますし、

そのうえで就労するために必要な事をしっかりと伝えてくれます。

相談支援専門員としてすることがあんまりない(笑)

でも、しっかりと情報共有してくれますし、頼れる存在です。

実習に出ましょう!

実習ステージに入ると、外部企業に実習に行くようになります。
希望の会社に実習に行ければよいのですが、まずはリタリコと提携のある企業に職種を希望して出向きます。私のところは、スーパーマーケットで食品の仕分けや袋詰め店頭への出し方を。またスポーツジムでホール内や器具の清掃を。病院事務で書類の仕分けなどの体験・自習を行います。
一週間から二週間で数日、数時間、間をあけながら受けていきます。どこをとっても良いですし、なんなら全部受けても大丈夫です。まずは、安定した出勤が大事です。仕事は、簡易でゆっくり覚えられ、怒られることもありません。私の見たところですが、実習に行かれた方は良くも悪くも人が変わります。自信を持たれた方、失敗して落ち込んだ方もありますが、何かを掴み自信にあふれているように感じます。主に一日行われていたので、私は受けることはできませんでした。残念!

前述の通り、私は外部自習へ出られませんでしたが、のほほんとしてはいませんでした。スタッフが午前中でも実習ができるように通所内実習を計画してもらったのです。事務業務が主でしたが、事業所内を企業に見立ててスタッフは上司です。朝のセッティングルーティンや事務書類の作成、電話番などでしたが、どうしても電話番が苦手でした。対面なら話せるのですが…。事務書類の作成は、昔取った杵柄で難なくこなせるのでした。それでも一人での実習は寂しくありましたが、今回のことが後の実習に生かすことになるのです。

実習があれば報告会があります。発表の作成はできるのですが、大勢のメンバーやスタッフの前での発表は緊張してしまいます。ちょっとしたストレスです。なんとかスタッフに背を押され、ふり絞ってメンバーの前でおはなしすることができましたが、これも後の実習につながる訓練となるのでした。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

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究極の実習 二連発!!

ある日、スタッフからお話がありました。プログラム講座の手伝いをしてもらいたいとのこと。資料を集めて、まとめてほしいとのことでした。内容は深いものでしたが、これならなんとかできると思い資料集めを始めます。この時点では完全に裏方だと思っていました。
やり始めたら夢中です。夜や休みの日も考えていました。ちょっとやりすぎと注意されるくらいです。
約一か月後、少し時間がかかりましたが一冊のレジュメができました。自分でもよくまとめたと思います。スタッフにレジュメを渡して、お役御免と思っていたのですが、甘かったです。私も講座に出てくれとのこと。騙されました。あんなに人前は嫌だったのに・・・そのスタッフは、笑顔で少しで良いからと軽く言われました。ただ気が重い反面、自分のまとめたもののメンバーへの反応は気になっていましたので、結果引き受けることにしました。企画部で培った人前で話すことのおかげです。
結果プログラム講座は、大成功でした。危うい部分はスタッフにフォローしてもらい、なんとかメンバーに内容を伝えることができたと思います。ちょっと過去の自分を取り戻せた気分。やってよかった。スタッフに感謝です。

発表の興奮冷めやらぬ、もうこんな経験はないだろうと思っていた頃、その話はやってきます。また、やってほしいなと。何を?プログラム講座?今度はチームで・・・。
二度目の作成です。少しの自信はありました。心配したのは、3人チームでの作成です。前回の仕事は、一人でした。ペースも考え方も自由にやれます。間違えれば元に戻れます。なにせ気を使う必要がない。
しかし、チームの作成は違います。まず、リーダーがいります。これはスタッフが引き受けてくれました。構成が必要です。これはチームメンバーで考えなければなりません。ことが進まなかったので、スタッフより各章の担当があてはめられました。経験者は自分のみ、作業のウェイトはかかることは当然です。とりあえず皆の思い思いのまとめたものをペースを合わせながら作ることにします。ある程度のところで、それぞれ作成したものを見て意見を出し合いました。私は初めてのメンバーのことを考えて、全部の章を準備しておきました。前回の体験が役に立ちます。
今回のプログラム講義の日程は、二日間。二日間の内容とつながりが必要でした。ミーティングや確認作業は、随時行いました。やっとできたものは、超大作になります。

ところがです。ここからあることが起きます。スタッフのチェックです。次々と余分なところはバサバサとカットされます。しかし見る見るうちにわかりやすくなりました。やはりプロの講師です。
ここでも、メンバー前に出演することになります。今度はチームで寸劇をやることに・・・
やってできないことはありません。今回も大成功です。今回もまた少し自信を取り戻せました。

今回、初めてメンバー作成によるプログラム講義ができました。ポイントはやはりメンバー間のコミュニケーションです。実際に個人事業以外では、一人で仕事は成り立ちません。今回のプログラムは、その自習訓練でした。三か月ほどでしたが、十分な実習が送れたと思います。貴重な体験です。私たちの後もこのプログラムは続いていくと思いますが、今後通所される方にも、ぜひトライしてもらいたいものです。

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就活開始!

実習に慣れてきた頃に、実際に希望に沿った、または近い企業に実習に行くことになります。シチュエーションや期間は様々で、入社前提とした長期間のトライアル雇用もあります。今は、コロナ過中ともあり、実習状況はかなり厳しいものでした。
同期に通所されたメンバーも次々と思い思いの企業に実習を応募したり、説明会に出向いたりしていましたが、コロナのことを外しても状況は日に日に悪くなっていました。健常者でも大変な状況です。私たち障がい者は敬遠されがちです。その中で、わずかに理解のある求人に望みを託していたところでした。当時の挨拶は、おはようの後に「どうだった?」でした。本当は、プライバシーに反する行為ですが、気になってつい発してしまうのでした。

私は、結構のんびりしていたと思います。年齢も若くないし、求人も少なく、おおよそ一年の期間を考えていました。もしかすると期限いっぱいの二年かかるかもとも。母の介護の心配もありました。気にならなかったといえば噓になります。それでもスタッフの方は、自分の状況にあった求人を見つけてくれました。とはいえ、たった2件ほどです。1件は、専門的な知識が足りずむずかしく、もう1件はリモートワークでの仕事でした。
現在、当たり前のようにリモートワークが始まっていますが、あくまで会社勤めを基本にできない分を在宅ワークにしているか、完全フリーランスの方です。その求人は、企業形態はありますが、完全リモートワークを主体とし、フリーランスに近い内容でした。業務内容も自身で顧客と契約を結び結果を社に送るということ。待遇面は素晴らしく良いので、明らかに専門知識が必要な求人と思われました。他に求人はなく、しばらく迷いました。

瓢箪から駒が出た?

そんな就活に悩んでいる日々、定期的に症状のモニタリングに来ていただいていた、前述の私の相談支援専門員の方と面会する日がありました。大変パワフルな方なのですが、その日は様子が違って見えたのでした。ひどく疲れているような・・・やつれているような・・・その方とはモニタリング等でよく話をしていて、自分勝手に今やっている事業のことが大変なのだろうと思いこみ(実際は違いました)お話を聞いてみました。

その事業とは、「就労継続支援B型事業所」でした。私は当時なんの知識もなく、事業所を立ち上げて間もないこと、少数で業務に手が必要なこと、面白い就労業務にチャレンジしていることなど、その方の話し方も相まって前のめりに夢中になっていました。もし自分がやれるのであれば飛び込んでみたい!と思うようになり、つい働けないでしょうか?とその場で尋ねていました。
帰ってきた答えは、あなたにやれますか?あなたならやれるかもしれません。どうしますか?だったと思います。夢中になって興奮していたので、よくは覚えていませんが。リタリコのスタッフが事の流れの速さに驚いていたことは、はっきり覚えています。もちろん私が望んだことだったので、スタッフも喜んでもらえました。ほんとに瓢箪から駒が出ました。

障がい者である私が、就労移行事業所のメンバーから就労継続事業所のスタッフになる。おそらく前例は少ないと思われます。いや、無いかもしれません。ほんとに人との縁は大事だと感じました。ただ相談員サービスをされている方が、相談者の雇用主になることは問題があるのではと思われましたが、ここは押し通すことにしました。(やはり後で問題ということになりました。今は別な方の相談員についてもらっています。)

代表
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相談支援専門員から雇用主に…

何とも数奇な運命を感じますね。

でも、出来ると思ったからこそ、提案させてもらいました。

卒業!そして・・・

そんなわけで、私は就職口が見つかりリタリコを卒業することになりました。ちょうど通所して一年が立とうとしていました。就職先をあきらめていた矢先の怒涛の出来事です。
リタリコでは、同時期に数人卒業者がでていて、その中に入れたことは大変うれしく思いました。
最後の試練がなければ、もっと喜べたのですが・・・

えーっと、大勢の前での卒論発表です。
企画部での仕事やプログラム講義の実習で培ったスキルはありましたが、独りでの公演とはプレッシャーが違います。内容も体験してきたことを聞きやすく伝えなければなりません。憂鬱でした・・・

結局、逃げきれずこれまで歩みとリタリコで得たこと、これからの仕事についてまとめて発表しました。スタッフさんのフォローもあり、なんとかこなせました。これで全ての試練は終わりました。
最後に在籍生からの寄せ書きは、大変うれしく宝物が増えました。これで無事卒業できます。さよならが寂しくなるほど居心地の良い環境でした。リタリコに迷われている方がいらっしゃたら、ぜひ体験だけでもしてみてください。

現在私は、このHPの居場所「就労継続B型事業所 アクセプト」のスタッフとして働いています。
この一年間、類似業種の就労移行事業所に所属していましたが、スタッフの考え方には似ているところもあります。全く異種の仕事ではなかったので、ストレスは感じられませんでした。
今は会社の代表(元私の支援員)や既存のスタッフの方に助けられています。
良い仕事場です。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

リタリコへ就職や未来を求める方へ

駆け足でダラダラとお話してきましたが、ここまで読んで頂きありがとうございます。

私個人のお話は置いといて、一番にお伝えしたかったのは「リタリコ」に通うことで、外の世界に復帰できたことです。それは、就職できたことだけではありません。人とコミュニケーションがうまく取れたこと、新しい絆や新しく知り得たことが増えたことです。心に休まりもできました。リタリコに出会えて、通えてよかったと本当に思えます。

ここまでで、リタリコに行ってみたいなと思った方へ、私から言えることはまずは「自ら動いてみましょう」ということです。
もしかすると失敗するかもしれません。それでもリタリコのスタッフは、あなたを救い上げてくれるでしょう。もちろんいろんな道を勧めてくれますが、私がここでお伝えしたいのは、道は自分の意志で選ぶことです。それに対してはスタッフはアドバイスやフォローはしてくれますが、否定はしてくれません。就労や外の世界へ出ることは自分自身が決めることだからです。そのお手伝いはいくらでもしてくれますので、安心してその扉を開いてください。
この先のあなたにハンデを感じさせない仕事が見つかることを願っています。

私も頑張ります。

あなたも、自分なりのペースでリタリコのようなサービスを利用して前進してみてください。
きっと良い未来が広がると思いますよ。

次回は、リタリコでの楽しかったエピソードか、実際の今の仕事ぶりについてお話できたらと思います。それではまた。

そのひとりの「働きたい」にこたえる。【LITALICOワークス】

ここまで読んで頂きありがとうございました。改めて「リタリコ」を是非推させていただきます。

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代表
代表

リタリコさんアゲな記事になってしまいましたが…

別にいいように伝えようとかしているつもりもなく、ありのままだと思います。

私も、就労移行支援であればリタリコさんを推します。

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